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ふく百話(14)

「南風泊市場の成り立ち」

南風泊(はえどまり)の読み方はクイズにでるくらい珍しいです。長崎県五島市にも同じ地名があります。江戸時代、北前船の時代に日本海を下ってきた帆かけ船が関門海峡に南風(はえの風)が吹くと入れないで風待ちをしたことからこの地名がついたようです。北前船のことは以前少し紹介しましたが船は単なる運搬船ではなく商社機能を備えた貿易船です。船主船長である経営者の才覚と手腕で商いをしながらの航海です。船主船長というのは船の所有者と船長が同じということで1隻の船が全財産です。下関は出船千艘、入船千艘とその賑やかさが詠まれています。亀山八幡宮の祝詞の中でこの言葉が再々でてきます、

本日の話はインターネットで検索しても出てこない南風泊市場誕生の物語です。

私は下関商業高校を卒業して昭和43年に下関唐戸魚市場(株)に入社しました。

ふく業界を取り巻く状況は昭和40年の日韓国交正常化を受けて100隻を超える50トン型の萩市のふくはえ縄船が東シナ海、黄海へ大挙して操業を始めた頃でした。その頃のふく市場は唐戸のカモンワーフの場所にありました。戦後は下関をはじめ北九州の台所市場として門司や小倉からも買い出しの船が来て魚、野菜・果物、花、食料品の唐戸総合市場でした。

ふく船入港時、魚市場の施設が狭隘、それに増して関門海峡の急流の中を入港することは大変な危険と困難が伴いました。大風の中で船が着岸するのを手伝いましたが恐怖を感じたのを今でも覚えています。岸壁が狭いため船を縦につけるので荷役も大変です。船と岸壁をつなぐ踏板から人や物が転落しました。

私は荷役中にブリを活かすイカダと船に渡る踏板から何度か海に落ちました。

そのような状況の中ふく船が唐戸市場だけでなく、下関の他の魚市場、下関魚市場と下関中央魚市場(両方合わせて下関漁港市場と呼びます)に入港するようになりました。加えて北九州市。福岡市、長崎市、佐賀市の市場にも入港しだしたのです。相場は唐戸市場が高値の日が多かったのですが他の市場は価格保証までして船を誘致していました。当時、常務の小野英雄(私の叔父です)はこの困難に直面し昼夜を問わず、船主船長の顧客と命をかけて付き合いをして船をつなぎとめていました。船が会社であり全財産です。船長は船員10名を雇っての1か月近い過酷な操業です。身近でみていましたが互いに義兄弟のような関係だったと思います。

市内の魚市場で最大規模は下関魚市場、戦後水揚量で日本一になりました。次がライバルの下関中央魚市場でした。父親の叔父が両魚市場の役員をしていましたが私が就職するときに友昭は成績が良くないし、漁港市場は水産大学卒が優先なので就職は無理だから、小野英雄のいる下関唐戸魚市場(株)に頼めといわれたのです。それでお願いしたら荷役作業員が不足しているのでまずその仕事から始めてくれとなり、無試験で入社しました。その後、下関唐戸魚市場(株)は、ふくの取り扱い一元化に成功し全国に類を見ないふく専門市場として一番の魚市場に発展しました。この基礎を築いたのは多くの先輩のおかげですがその筆頭は我が叔父、小野英雄です。

ちなみに全盛を誇った下関魚市場は粉飾決算を繰り返していて、下関中央魚市場との合併直前に倒産し全国ニュースとなりました。

昭和49年11月、小野は応援してくれる仲卸人有志とともに決死の覚悟で山口県が埋め立てを進めていた彦島南風泊の地に仮設の魚市場を建設し唐戸市場から「ふく部門」を南風泊市場に移転したのです。反対者がセリには参加しないと言っていたのですが蓋を開ければ多くの仲卸人が最初のセリから参加しました。天然物100%の時代で生産者の応援が強かったです。もちろん山口県や下関市も背中を押してくれました。私が東京から戻る1年前のことです。

南風泊市場で小野は体を張ってセリを行い、その後を松村久氏に託しました。小野はいつ寝るのかといわれるほど活動をしました。そして多忙の間にも、日本舞踊・坂東流の名取、毎日書道展に毎年入選、観世流謡曲は玄人並み、合わせて全国ふく連盟副会長、下関商工会議所副会頭、下関法人会会長、ロータリークラブ会長などを務めていました。

夜の付き合いも多く、毎晩のようにお客様、市内財界人と豊前田でした。私も時々同伴しました。夜中の12時に起床するので帰って寝ますというと小野から社長の俺が帰らないのに社員のお前が先に帰るのかと言われ辛抱しました。カラオケも旨かったです。常々、魚市場の職員はカラオケの誘いを断ってはいけない。また持ち歌を3曲もっておけば人が先に歌っても大丈夫が口癖でした。小野は深夜豊前田から南風泊市場に行き、セリが始まる時間まで社長室のソファーで仮眠をとるのが再々でした。そのような無理な仕事ぶりが命を縮め、肝臓がんのため逝去しました。享年69歳。業界にとって一大事件でした。

過労と過度の飲酒が原因だったと思います。市長時代、私も過度の飲酒でしたが叔父のように過労にはならないように気を付けました。

それまで小野英雄のためにと思って何事も取り組んでいましたので道を見失いましたが小野の様々な取り組みが遺言だと理解し、構想であった新唐戸市場建設、カモンワーフの建設、新水族館のありかた(世界一のふく展示)、それと小野が生きているうちに報告できなかった税理士登録(長靴を履いた税理士)を成し遂げました。しかし市議会議員、県議会議員、市長への道は死後のことであり小野が存命なら恐らく途中で止められていたと思います。時代の流れとともに過去の出来事が忘れられます。それでも南風泊市場の歴史に、小野英雄という功績者が存在したということは後輩として語り続けていかなければなりません。