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ふく百話(95)

「忘れ得ぬ人々」

「ふく百話」もそろそろ終わりが近づきました。始まりはふくに関する様々な情報提供が目的でしたが「下関ふく」への思い入れが強く、中尾友昭のふく百話となった感があります。長い下関ふくの歴史の中で時々は関連記事をまとめる人が今後も出ることを期待します。

今回のタイトル「忘れ得ぬ人々」は下関ふく業界へ貢献のあった多くの人々の中から私が勝手に選びコメントを記しました。正式にはすべての方を紹介すべきですが紙面の都合や印象の強弱があり限られた先人の紹介となりました。

対象者は主に仲卸人です。年代順や名前が正確でないところはご容赦下さい。

昔は豪快な人物、ユニークな人が多かったです。以下敬称は省略します。

川建栄太郎。通称、海軍さん。住所は門司です。仲卸人旅行で披露された大柄の体なのに華麗なステップで素晴らしいオペラの一節を歌い、踊られました。

吉田福一。京都から師匠を招き謡曲をたしなむ文化人でした。毎月の集金時に本町の自宅に伺いました。一番奥の居間兼台所でブランデー入りの紅茶をご馳走になりました。この家の奥まで入るお客さんは中尾君だけだと言われました。

伊東繁。門司港のふく割烹「しげる」を経営されていました。この方も豪快な方で、宴会で盛り上がるといつも浴衣の帯に新聞紙を丸め尻尾をつくり、帯に1万円札を5枚挟むのです。私の給料が10万円代の時期です。芸者さんの三味線に合わせ、巧みに腰を振って伊東さんが踊ります。その新聞に火をつけたら5万円を仲居さんに進呈するというのです。ろうそくに火をつけ開始しますが、新聞紙に火が付いたことは見たことがありません。仲居さん達は大騒ぎでした。

中尾勇。下関のふくを全国に広めた功績者です。初代仲卸人組合長、小野英雄の南風泊進出を応援した将来を見据えた業界のリーダーでした。関東、関西のデパートに「ふくのなかお」直販店を出しました。ご子息の孝さんは仲卸人組合長を歴任し、市議会、県議会、市長選挙と選対本部長をして頂きました。

松本良雄。唐戸時代のふく取り扱い代表者です。特に大阪の大規模問屋との取引でした。南部町在住で恵比寿神社の崇敬者です。2月9日のふくの日神事、誘致の立役者です。

末永与作。私が入社した頃の仲卸人組合長。弟の末良さんと活躍されました。

木村孝四郎。赤岸通りで鮮魚店を営んでいました。昔気質の厳しい人でした。何度も厳しく指導を受けました。書道が得意で唐戸市場でのふく供養祭の花輪の字を全部書かれていました。息子の孝寿さんとは仲人が大石常務で同じです。

中川一雄。仲卸人組合長。唐戸で高級鮮魚を扱っていました。私が一番影響を受けた組合長です。東京から下関へ戻って最初の魚市場・仲卸人合同懇親会で上座の中川組合長にお酌に行った際、私を前に座らせてゆっくり会場全体を指さしながら、いいか中尾君「この会場の皆が君の行動を見ている。期待に応える活動をしなさい」と励まされたことは忘れない思い出です。

勇次勝太郎。正義感あふれる人物でした。私が取締役当時の監査役です。私が窓口でしたのでよく衝突しました。セリでも鍛えて頂きました。市議、県議時代は市場前での街頭報告を励ましていただき、市長になってからも応援して頂きました。唐戸市場の建て替えでは移転に反対し大きな活躍をされました。

畑栄。山本譲二さんの自称後援会長。気合の入った歌は業界一番でした。ふく刺しの「鶴盛り」考案者と言われています。業界大手、対米輸出の功労者です。

平尾光司。業界一の文化人です。後にも先にも平尾さんのように仕事を離れ文化的活動や観光振興に尽力された方はおられません。組合長としても活躍されました。大手として、また小野英雄亡き後の下関ふく連盟会長として我が国のふく業界をリードしました。ふく楽舎建設者です。

森本郁郎。森本商店から南風泊市場でのヤマモ水産、唐戸市場での回転ずし経営、組合では副組合長として様々な調整に当たられました。運転が趣味で愛車ベンツで高速道路の飛ばし屋です。

平賀久則。一見、遊び人ですが、堅実経営で業界では珍しかった大型トラック輸送を手掛けました。よく可愛がって頂きました。

山岡福治。仲卸人組合長。小野英雄とは仲が良かったです。小野が苦しい時、互いの夫婦で旅行に行ったと聞きました。私が役員に就任した時の組合長です。

門杉清二。若手のリーダーとして弁舌さわやかでした。業界のとりまとめ役でした。唐戸市場の青年団、東和会会長でした。

森田嘉光。唐戸市場の兄貴のような存在でした。本をよく読み、だれもが森田のよっちゃんと一目、置いていました。野球部の練習で中尾君はいつも早く来て準備をしていると褒められました。亀山八幡宮、みこしの代表者でした。

酒井敏也。下関唐戸魚市場(株)監査役として活躍されました。亀山八幡宮入り口の会社です。ふく提灯製作会社です。

平尾歳勝。唐戸市場野球部監督。中学では補欠の私も唐戸市場ではメンバーが足りず、レギュラーでした。門司の歯科医師会との定期交流試合は派手でした。

道中宏。私が唐戸青年経営研究会会長の時、新しい唐戸市場建設へ向け、唐戸朝市を継続しました。道中さんは料理の専門家として率先して取り組んで頂きました。選挙時は選挙事務所へ自ら作った料理を良く差入して頂きました。

畑耕二。畑栄氏の長男です。次男の敏治さんとともに、南風泊市場では別々の会社を経営し、畑水産を盛り上げました。同年代です。残念ながら若くして亡くなりましたが、ご子息の栄次さんがしっかり会社を支え、発展させています。

時代は大きく変化しています。仲卸人には三代目、四代目もおられます。

その初代を知っている松村久さん、私も高齢者の仲間入りです。

最後に生産者側から印象の強かった人物を一人だけ紹介します。

藤原俊昭。元山口県漁連会長です。東京大学農学部水産学科卒業後、山口県庁に就職。下関水産事務局長、水産部長を歴任、退職後は県漁連会長に就任されました。小野英雄とは下関水産事務局長(現在は水産振興局)時代から親友でした。下関唐戸魚市場(株)の生産者側の取締役でしたが、役員全体が藤原さんに一目おいており、まとめ役でした。私が市議会議員に当選した時は退任して山口市に戻られていました。丁寧なお手紙をいただき、選挙の慰労とこれからの活躍に期待すると励ましの言葉が書かれてありました。山口県水産業界の将来を見据えた人物です。藤原さんとの逸話を一つ紹介します。平成5年の年明け、元気だった小野英雄が体調を崩し市民病院に入院しました。特別室に小野を訪ね指示を受けるのが私の役目でした。あるとき小野は自身の後継について話をしました。役員人事を藤原会長に相談するようにとの指示でした。会長に面談し、小野社長の希望は自身が会長に退き、他の役員人事について藤原会長に了解を得るものでした。藤原会長は小野社長は健在なので人事の話はまだあとで良いと思うという意見でした。小野社長逝去のあと、役員人事は揉めましたが小野英雄が描いた人事にはなりませんでした。以前紹介した、山田社長、松村専務、中尾常務の誕生です。業界の良識で人事は決まったのです。