会員登録はこちら

メルマガ会員募集中

【贈り福】ふぐ七福神セット(2人前)

今だけセール

価格帯で選ぶ

関とらコラム、てっさ・てっちりの美味しい食べ方

関とらコラム、ふぐについて詳しくなろう

ふく百話

ウェブマガジン旅色の山陰山陽お取り寄せグルメ&観光特集に紹介されました
カテゴリーで選ぶ
営業日カレンダー
2024年 05月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
今日
2024年 06月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30       

※土曜、日曜、祝日は定休日のため
お電話でのお問い合わせはお受けできません。
メールにてのお問い合わせは、翌営業日のご返信となります。

 
トップ > ふく百話 > ふく百話(93)

ふく百話(93)

「産地の盛衰 天然物」

私が下関唐戸魚市場(株)へ入社した昭和43年(1968年)頃、ふくといえば天然物の内海物、産地は主に瀬戸内海と豊後水道のある大分県でした。

中でもフグはえ縄漁、発祥の地の徳山粭島(すくも)は一番の産地でした。

豆腐でいえば内海物は絹ごし豆腐、春先に漁獲される外海物トラフグは木綿豆腐と言われ、外海物は一段下にランク付けされていました。

シーズン中は唐戸市場の岸壁に灰色の活魚船が停泊しセリ時間になると船のいけすから活とらふくが運ばれました。運搬船が漁獲したトラフグを運んできました。当時では珍しかった徳山市粭島船団の共同出荷でした。

内海物が主流であったのはこの頃までで、その後は東シナ海、黄海へと漁場が拡大していきました。背景には昭和40年(1965年)の日韓国交正常化による日韓漁業協定成立があります。それ以前は李承晩韓国大統領による李承晩ラインが設定されており国交正常化までの13年間で日本漁船は233隻、漁師は2791人が拿捕・抑留されました。漁場は対馬から済州島に至る海域です。

主な漁業は底引き網とまき網(アジ、サバ、イワシ)でした。

ふく漁業も漁獲が急激に増加し、船も大型化しました。関門海峡にある唐戸市場では関門の潮流で入出港が危険であり、市場が狭く荷役作業に支障をきたしていました。昭和49年11月に南風泊市場に進出したのです。

小野常務、人生最大の大英断でした。営業部長でセリを担当していた松村久さんの話では南風泊市場へ移転してからの15年間が下関ふく業界の黄金時代だったそうです。その頃、沢山漁獲されたのはトラフグではなく「カラス」です。トラフグに似ていますが尻びれが黒いのです。現在は「幻のふく」となりました。あれだけ貢献したのに「カラス」とは少し可哀そうです。せめて「カラスフグ」にして頂きたいものです。

昭和40年から50年代の萩市はふく延縄船で町に活気がありました。特に越ケ浜地区は100隻もの50トン型ふく延縄船が所属していました。乗組員は9〜8人。加えて大井港20隻、玉江港30隻、阿武町奈古も10隻、北浦地区の小串、川棚、矢玉、伊崎は中型・小型船でにぎわいました。ふく船に5年も乗れば家が建つ時代でした。萩市中がふくで活気がありました。市長からも再々お礼を言われたそうです。

夏の休みには船団の大懇親会が開催されました。下関唐戸魚市場(株)からの出席者は小野社長と松村部長でした。私は地元の北浦地区や下関市伊崎地区が担当でした。

越ケ浜では100隻の船長はじめ、山口県、萩市の行政関係者、市場では長崎、福岡、北九州、唐津、下関などから大勢の参加者があり、大懇親会だったそうです。松村さんは100人の船長にお酒を注ぎ、返杯を受けました。

小野英雄は宴会終了後、実家の奈古へ帰宅するや否や玄関に倒れ込んでいました。まさに命がけの集荷です。萩市のふくでの賑わいは30年近く続きました。

船長、船員を問わず新築住宅が沢山建ちました。新造船も沢山できました。

当初、漁船は木造でした。その後、鉄船、FRP船と変わりました。外海物、延縄漁業が全盛期を迎えていました。

漁法は浮き延縄で中層のカラスを釣りました。その後、底延縄に替わりました。これにより大型のトラフグが漁獲されました。北へいけば大型トラフグが生息していることがわかり、北朝鮮海域、38度線を超えて特攻隊で操業して大量水揚げをする漁船も現れました。資源保護期間中の操業など違反操業も頻発し、水産庁の漁業監視船に船団長の奥さんが乗り込み、違反操業を続ける夫の船に操業中止を呼び掛ける事態もありました。多くの停船処分事件がありました。

昭和55年から56年にかけての話です。昭和59年ふぐはえ縄漁業の規制が始まり、農水省への届け出制となりました。

昭和50年頃から韓国漁船の操業も活発となりました。南風泊市場にも済州島からトラフグが輸入され、私が担当しました。形の良いふくが多かったです。

昭和56年、宮崎県や大分県で大漁水揚げがありました。活魚水槽車は量が多く無理で、箱締めで運びました。それでも間に合わず、最後はダンプカーで輸送しました。昭和60年にも大分県佐伯市の巻き網で100トン大漁水揚げがあり、ここでもダンプカー運搬でした。

昭和60年代に入り、東シナ海に中国船が増加して漁場が狭くなってきました。東シナ海、黄海での操業に陰りが見えてきたのです。また漁法も、それまでの底延縄漁業に加え、新たに開発された「スジ縄」漁法により乱獲となりました。

この漁法は産卵場に向かい九州東側を下る、産卵親魚をスジという透明の延縄で釣るものです。沖合では漁法の異なる山口県と福岡県とで漁場トラブルが頻発し、行政が調整に乗り出す騒ぎもありました。それまで大型船で全盛を誇った越ケ浜などに替わり、福岡県宗像市鐘崎漁協が頭角を現しました。豊かな漁場、多くの後継者、福岡魚市場、北九州魚市場に近いという地の利。その中でふくだけは値段が良い、南風泊市場出荷でした。19トンの中型船で80隻以上はいたと思います。乗組員は5〜6人です。ここでも新造船のラッシュでした。進水式と毎年の懇親会は盛大でした。小野英雄の発案で下関から貸し切りバスで楽団を連れて行きました。隻数は減少しましたが鐘崎漁港は今でも元気です。

私は酒が強い方でしたが、それでも大勢の懇親会では鍛えられました。懇親会で酔わない飲み方は「腹をくくって」気合を入れて腹で飲むことです。

平成になり、東シナ海での操業が不漁で苦しくなりました。

平成元年頃から三重県・愛知県・静岡県沖で大量のトラフグが水揚げされ出しました。それまでは伊勢湾の限られた海域でした。漁法はまき網で一網打尽です。近年は資源保護に効果のある延縄漁業もあるようです。

その後は千葉県、富山県、北海道などでも水揚げがあり、先日紹介した福島県でも水揚げがあります。地球温暖化、操業船が少ない、自然環境が良いなどの複合条件が関係しているのでしょう。

平成3年(1991年)、バブル崩壊。資源減少と相まってふく業界に斜陽の影がかかり始めました。平成6年頃から、越ケ浜の船の廃業が続き大型船はなくなりました。

平成7年、南風泊市場における天然物と養殖物の取り扱い金額が逆転しました。この出来事は下関ふく業界の将来を暗示するものでした。今後は養殖フグが主流になる。下関独占の流通に変革が起き始めたのです。