ふく百話(51)
「第83回 下関ふく供養祭」
4月29日、南風泊市場にてふく供養祭が開催されました。昔は天然ふくの時期に併せ秋の彼岸から春の彼岸までがふくのシーズン。その締めくくりが3月21日のふく供養祭でした。ところが消費地がまだふく料理を提供しているのに産地で供養祭を行ってシーズンが終わりと宣言するとふくが売れなくなるという苦情があり、全国で一番遅い4月29日となったのです。今回の供養祭、お客を招いての開催は3年ぶりでした。私は下関くじら食文化を守る会会長代理で出席しました。出席者は約200人、花輪は100本くらいありました。花輪は多くなるので1業者1本です。式典に先立ち花輪で囲まれた会場で市長感謝状、ふく連盟会長賞の授与がありました。生産者、養殖業者、出荷者とあります。 面白いのは「大ふく賞」です。今シーズン最大のふくを釣り上げた生産者に贈られます。今年2月に対馬沖で漁獲された重さ10、4キロの大物です。
感謝状贈呈の後、読経、慰霊のことばと続きます。慰霊のことばの順番に思い出があります。私はふく供養祭の司会を長く担当していました。慰霊の言葉は名誉会長の市長が先でした。ある時、小野ふく連盟会長が全国のどの地域か忘れましたが名誉会長より会長が先に述べているということを聞きつけ、下関でもと実現しました。感謝状贈呈は名誉会長の市長を立てる。そして最大の見せ場、慰霊のことばは会長が最初に述べることとなったのです。
当日は市長の時と同じく、ふくネクタイ、ふくタイピン、ふくバッチと自宅にあるふくグッヅを全て身に着け出席しました。私の参加は5年ぶりです。懐かしい人々に沢山出会いましたが時代の流れを感じたふく供養祭でした。生産者、仲卸人ともに私が南風泊市場で働いた時代の人から子供、さらにお孫さんが船長をされている方もおられました。
私が入社する前は唐戸市場の狭いセリ場に柱を立て関係者手作りの会場を設置していました。供養祭終了後は魚市場の役職員旅行で小型タクシー3台に分乗して温泉地に出かけたそうです。社員も少なかったのです。
その後、関門汽船をチャーターして洋上で放魚、参加者に酒と弁当がつき、そのまま関門海峡遊覧でした。参加者が多くなると、長府マリンホテルまで遊覧船でいったこともあります。南風泊市場進出後は長く司会を担当しました。
南風泊市場にて供養祭、その後の懇親会はシーモールホールで行ったこともあります。今の形になったのは小野英雄が社長に就任してからです。小野社長のアイデアで花輪に囲まれた会場を活用しようということで設営を葬儀社の活田会館に頼みました。放魚で来賓が海上にでている間にテーブルや料理を準備、コンパニオンも多数配置しました。
平社員から始まった私の供養祭参加。課長、部長、役員時代まで司会を担当しました。市議会議員、県議会議員では来賓として出席。平成17年の市長選挙落選後は招待なし。4年目に関連会社の役員としてふく唐揚げを担当しました。そして市長として8年、毎年晴れやかな場面でした。市長落選後4年間招待なし、5年目くじらの会役員として出席。供養祭出席でも私は浮いたり、沈んだりの人生でした。今後は下関くじら食文化を守る会として出席します。
旧下関駅豆水族館で生きふく展示をしたことも懐かしい思い出です。乗降客から水槽のふくが死んでいると駅に連絡あり、そのたびにふく入れ替え、ふくが横になっているだけでも死んでいると連絡あり対応に追われました。祭壇のふく、現在は「水槽」以前は大皿でした。式典の途中であばれだし、大皿から落ちたことがあります。可愛そうなので翌年から水槽へ変更し放魚しました。
会場の2度活用で懇親会終了後、ふく供養祭カラオケ大会を実施しました。
1回目は3月21日、寒い日で会員それぞれ石油ストーブを持参しました。小野英雄も自慢ののどを披露しました。南風泊漁協を事務局に大規模な句会も行いました。南風泊市場がふくで輝いていた時代です。
50回達成。お祝い、励ましのメール沢山ありがとうございました。
「ふく百話」が�蠧�フーズのホームページに掲載されました。

