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ふく百話(30)

「ふくと我が人生 3」人生の転機

入社して3年、午前1時仕事開始の生活には慣れ自分は会社の歯車の一つになったと感じていました。同業者の友人は少なかったですが、下関市主催の毎週の青年学級、火の山ユースホステル同好会、市民合唱団、フォークダンス協会、柔道クラブ等、女性を含めた仲間もできました。いくつかの恋愛、失恋も経験しました。様々な人々と交流するなかで大学へ行けなった思いや、今後の人生展開を考えたときに自分は今のままで良いのだろうかと悩む日々が続きました。今後の生活展開に希望が持てず悶々とした日々が続いたのです。自分は生涯、午前1時からのふくの荷役作業で終わるのかと今から思えば錯覚に陥りました。その間も「ふく」業界は成長を続け、瀬戸内海のトラフグ一色から、日韓国交正常化の影響を受けて、遠く東シナ海・黄海へと漁場が拡大していったのです。それに伴い船も大型化し萩市の越ケ浜や玉江、福岡県の鐘崎漁業協同組合などがそれまでの徳山市や大分県、愛媛県等に加えて大型の産地へと成長していった時期です。

関門海峡の流れが速い唐戸市場では大型船の入港が困難だという悪条件が

存亡を左右する大きな課題となりました。

青年学級では自ら志願して役員を引き受け学級長になりました。いくつかの場で意見発表する機会がありました。そのような中で昭和45年、21歳の時、人生の転機が訪れたのです。NHK青年の主張全国コンクールというのがあり、山口県大会へ応募したのです。幾つかの演題の中から「職場で考えること」を選びました。3分間の制限時間で発表するものです。NHK山口で行われた大会で私は午前1時から仕事をしていること、下関水産ブランドの「ふく」取り扱う会社。仕事をしながら社会にどのように貢献できるか、いろいろな団体に所属して日々悩みながら将来の夢を模索している。このような内容で発表しました。審査員から今日も早朝の仕事をしてきましたかと聞かれたので通常通り午前1時から仕事をしてきましたと答えたことを覚えています。その結果、数十人いた発表者の中から私を含め2名が優秀に選ばれ、11月に広島NHKで行われた中国地区大会に出場することとなったのです。

私としては青春の矛盾に直面している青年の悩みを訴えたつもりでしたが、世間では弁論大会で優勝したと思われたのです。

「ふく」という特殊な魚を扱う魚市場で1時から仕事をしながら社会貢献活動を目指していることが審査員から評価されたのだと思いました。

11月、NHK広島放送局に行われた中国大会には5県から各2名、合計10名の出場者でした。各自の発表が終わり、審査結果の発表が始まりました。

まず第三位、そして第二位、この時点で自分はだめだったと思いました。しかし、心の中で夜中から働いている貧しいけれど成長したいともがいている田舎の青年に光があたらないものか、副賞の西ドイツ1か月海外派遣に行きたいなと思いました。「最優秀は山口県代表の中尾友昭さんです。おめでとうございます。」一瞬、我が耳を疑いました。その後のインタビューはしどろもどろでアナウンサーから助け舟を出してもらってなんとか答えました。テレビを見ていた萩の親せきから親に電話があり、友昭のネクタイの締め方とインタビューへの受け答えがなっていないと叱責されました。帰りは広島から下関まで新幹線はまだなかったので鈍行で帰りました。下関駅で小野英雄が待っていました。電車が到着するたびに近くの居酒屋から私を迎えに来たのです。今日はもう遅いから下宿へ帰れと言われました。後日、人づてに小野は私の全国大会出場を喜び自慢していたと聞いて、鬼軍曹の気持ちが理解できていなかった自分を恥じました。その夜は目が冴えて眠れず、そのまま仕事に行きました。一夜にして目立たなかった青年に光りが射した日でした。

翌年1月15日、成人の日。東京内幸町のNHK大ホールに皇太子ご夫妻(平成天皇)をお迎えしNHK青年の主張全国コンクール全国大会が全国放送で開催されました。下関駅出発の時は「下関ふく」を有名にしたということで社長、役員、関係者が幟を立て下関駅で盛大な見送りをしていただきました。

それまで何度か打ち合わせで顔を合わせた全国10名の仲間とともに発表したのです。結果は入賞とはなりませんでしたが審査員講評で深夜からふくに噛みつかれながら社会に目を向け働いている出場者がいると話がありました。

終了後、貴賓室にて皇太子ご夫妻を囲み10名の仲間と懇談しました。アナウンサーの司会で紅茶とケーキを頂きました。砂糖を自分で入れるのですが緊張で手が震えました。皇太子からふく輸送方法について質問がありました。

下関へ帰ると私は一躍時の人になっていました。いくつかのテレビ出演、

新聞取材、ロータリークラブでの卓話、教育長表敬訪問、建国記念日の青年代表挨拶等がありました。

8月、青少年交流協会主催 西ドイツ定期派遣。我々はNHKの枠で全国から選抜された130人の仲間とルフトハンザ航空のチャーター機、北回りでヨーロッパへ向かいました。直行便はなくアラスカ・アンカレッジで給油です。研修時を含め、経費はすべてNHK負担です。フランスのパリ、ドイツのミュンヘン、ボン、ケルンを訪問しました。我々のB班15人は南ドイツ、ミュンヘン近くのドイツ人家庭にそれぞれホームステイしました。一人でしたが同年代のMAXにはブロークンイングリッシュがよく通用しました。

初めて飛行機がヨーロッパというまるで夢のような出来事でした。広い世界、世界人類は皆同じ、人種差別はいけない、平和は尊い。

スターになったという勘違いから慢心の気持ちが生じていました。小野英雄からも注意を受けたことがありました。

広い世界を見て帰国後、向学心に火がつきました。もっと勉強したい。社会のために役立ちたい。自分の力を試したいという強い気持ちがありました。

新聞で中央大学法学部通信教育課程を知り入学しました。卒業資格は昼間部と同じ、転部課の制度もある。入学試験はレポートのみ。学費は格安でした。

入学したものの1年間は教材が届くのみで、なかなか取り組みにはなりませんでした。スクーリングの単位25%を除けば、その後は独学です。通信教育は「継続は力なり」です。卒業まで到達した人は20%前後だと思います。それも長期休暇の取得しやすい公務員が多かったのです。

昭和47年、ふく市場を南風泊へ進出するか否か小野は奔走し、役員会では協議が続いていたようです。若輩の私には知る由もありませんでした。

小野英雄の「二度と会社の敷居をまたぐな」の言葉を背に、社会党の弁護士になろうと大志を抱き東京へ飛び出したのです。23歳でした。

今回は私の履歴書になりました。振り返れば波乱万丈の人生ですが「NHK青年の主張」出場がなければ、私は市長までたどり着けなかったと思います。

そして、その間いつも応援してくれていたのが「下関のふく」なのです。