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ふく百話(27)

「ふく世界の桧舞台に立つ」

今回は太平洋を渡りアメリカ・ニューヨークを舞台にした「ふく」のドラマです。

本日のタイトルはアメリカ輸出に成功した翌年、山口市で行われた食品関係の大会で小野社長が講演した時、主催者である山口県がつけたものです。「桧舞台」は小野が日本舞踊の名取ということもあったかも知れません。主人公は倉岡伸欣氏(のぶよし)、日本生まれ慶応大学卒業後、単身アメリカへわたりマイアミ大学大学院でMBA(経営学修士)を取得、1963年、ニューヨーク(以下NY)では初めての本格的総桧作りの寿司バーを開業、以来半世紀にわたり日本食レストラン「レストラン日本」のオーナーとしてだけでなく、NYにおける日本食の普及と地位向上に邁進しアメリカにおける寿司ブームの土台を築きました。NYへの国際便機内食に初めて和食を提供、1975年の昭和天皇・皇后陛下NYご訪問時に公邸での公式晩餐会の料理を担当しました。歴代の総理大臣、日本内外の経済人、政治家、スポーツマン、芸能人ら多くの方がレストラン日本を訪問しファンになりました。NY市長は毎月すき焼きを食べに、故マイケルジャクソンは座敷で鉄火巻きを食べて「さくらさくら」を歌ったそうです。またレストラン日本は世界中のテニスプレイヤーに親しまれ、倉岡さんは皆さんの面倒をよく見られました。惜しくも2018年に86歳で逝去されました。世界中のテニスプレイヤーから弔辞が寄せられたということです。日本でも偲ぶ会が開催され参列者を代表して経済界から御手洗経団連名誉会長(キャノン会長)、女優の草笛美津子、日本テニス協会畔柳会長(三菱UFJ銀行相談役)がスピーチをされました。

さて本題の「ふく」の話です。寿司やすき焼きは食べ飽きた。すっぽんや

松茸も試した。最後の日本料理の「華」は「ふく」ということになりました。

日本びいきのアメリカ人やNYへ赴任している日本人からNYで「ふく」が食べられないかと要望があったのです。ニュヨーカーは好奇心が強く本物を求める。ある親日の有名料理研究家からは「ふぐを食べて初めて日本の神秘な味に触れた気がした。まるで東洋哲学を食っている思いだった。お前、あのふぐをメニューに載せる気はないか」。それが倉岡さんのパイオニア精神に火をつけたのです。1989年3月、対米輸出第1号が南風泊市場から出荷されました。その成功にはアメリカ側の倉岡さん、日本側から出荷元の対米ふく輸出組合員、畑水産の畑栄社長、ご子息の畑耕次さん、組合長の小野社長の多大な努力がありました。

その初出荷からさかのぼること5年前、1985年にこの物語は始まりました。倉岡さんはその年の9月、シーズン明けを待って許可を得てアメリカNYへ試食用にふくを輸入しました。さっそくレストラン日本でNYの有名料理評論家、大手報道機関を招待し畑栄さんの包丁さばきでアメリカ人も日本人も見とれるほど素晴らしいふく料理が提供されたのです。ところが翌日の各社報道を見てびっくり仰天したのです。「全然味がない。これが日本一のグルメ料理?」「日本でガン(鉄砲)と呼ばれる危険な魚を食べて恐くない?」「フグを食べて死に挑戦しませんか(ロシアンルーレットをやるようなもの)」、「昨夜は奇跡が起こった。30人の食通が全員フグを食べて、今日は皆まだ生きている」といったひどい内容でした。即日、FDA(連邦政府食品医薬品局、日本でいえば厚生省です)の検査官が来店して調査、在庫のフグは差し押さえ、フグは提供禁止となったのです。それから5年、倉岡さんの執念の長い戦いが始まりました。倉岡さん側はFDAに対して学者、弁護士、ふぐ処理師等でチームを作っての対応です。片やFDAも学者の集まりです。当初対応会議では、歌舞伎役者の坂東三津五郎がフグを食べて死亡した。日本食文化の華だといっても天皇陛下が召し上がらない。ふぐ処理師といっても国家試験ではない。そのような危険物をアメリカに持ち込んではならない。その後も様々な資料提供や安全性の確認が要求されました。倉岡さんはそのたびに下関側とも打合せ対応しました。幸い山口県にはふぐ取扱条例ができて数年経過、厚生大臣が下関出身の林義郎先生でした。そのおかげで厚労省とFDAという国同士での協議も再々行われました。後日、倉岡さんの話です。ふく料理は芸術(アート)だと思っていたが、アメリカでは科学技術(サイエンス)だった。ふく輸入に対し強硬に反対されたが、FDAの対応はフェアであり、最後は安全性が確保されることが理解され、解禁に至った。

1989年、平成元年3月28日、ついに対米輸出第1号が出荷されました。

FDAの指導で輸出元は新たに設立した「下関ふく輸出組合」、輸出書類には下関市長のサインとともにミガキ処理に立ち会った下関保健所の「食品衛生監視員」の署名が必要です。輸送方法はミガキふくを真空パックしてマイナス70度で窒素凍結、容器にはドライアイスをしっかり入れる。出荷は年に3回まで。空港も指定されており成田からNYケネディ空港です。輸入先は新規設立の「アメリカふく輸入組合」です。私は対米ふく輸出組合の事務局長として数々の対応に当たりました。その後、輸出は順調に推移して今年で32回出荷、総数量で20トン程度になります。私はNYを2回訪問しました。最初は平成3年、山口県中小企業経営者協会主催のアメリカ東海岸ウオーターフロント再開発視察団です。小野社長の配慮で行かせて頂きました。下関市から港湾局長が市長代理、私が組合長代理でNY市長と倉岡氏に親書を手渡しました。NY市長から返書を頂きました。この時の視察の団長は林孝介商工会議所会頭、帰国後の提言がその後、海響館、唐戸市場、カモンワーフ、あるかぽーと開発につながりました。

倉岡さん所有の真っ赤なベンツで五番街を案内していただき、いくつかのレストランやジャズクラブにも連れて行って頂きました。

二度目は平成11年。下関唐戸魚市場(株)創立50周年記念旅行です。

自由行動では一人で海側にあるフルトンマーケットやピア17に行って時間を過ごし、関門海峡沿いウオーターフロント再開発に夢をはせました。私はこの年の春、市議会議員に就任しました。議会最初の質問はウオーターフロント再開発でした。レストラン日本ではふく刺しも頂きました。倉岡さんにはNYでも日本でも大変お世話になりました。恩人です。現在もアメリカへのふく輸出は「下関ふく輸出組合」からの出荷に限定されています。例え西海岸、ハワイであっても正規はNYのふく輸入組合経由でなければアメリカでの流通はできないのです。西海岸のロサンゼルスやサンフランシスコ等で「ふく料理」の宣伝をしている店があると聞いたことがあります。正式な輸入ではないので「ふく」と申告しない手荷物か他の魚類(例えばアンコウ等)輸入品だと思います。倉岡さんは「ふく」の取り組みと同時期にカナダで農場を経営「そば」の栽培をされました。日本で食べるものよりもっと美味しいそばを作っていると自慢されていました。倉岡さん死後、NYのお店をデザインした愛知県立芸術大学元学長のご縁で始まったNYへの研修学生受け入れ事業が成果を上げました。それを記念して「倉岡伸欣ニューヨーク基金」が大学により設立され、デザイン専攻学生のNY研修が継続されています。時代は変わり、倉岡さんも奥さんもご逝去されましたがその後も関係者で営業は継続され「レストラン日本」は健闘しています。