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ふく百話(9)

「下関がふく本場の理由」

私は下関唐戸魚市場(株)に入社した頃からなぜ下関がふくの本場と言われるのか長い間疑問を持っていました。市長に就任して国内各地や海外に出張で出かけたときには「下関のふく」で盛り上がりました。

今から30年前、唐戸市場が建て替わることが決まりました。そして市場の跡地をどのように再活用するのかが課題でした。小野英雄元下関唐戸魚市場(株)社長、市役所元建設部長らと数年かけて沖縄から北海道まで全国の有名な市民市場を訪ねました。小野英雄の遺言ともいえる施設が今のカモンワーフです。

全国では下関がどこに所在するかはっきりわからない人も多かったです。

それが皆さんとの会話で、どこからこられましたか?下関からです。あの「ふくの街」ですね。全国津々浦々まで「下関といえばふく」という情報が行き渡っているのを実感しました。今回のテーマについていろいろと調べましたが、どこにもなるほど、だから下関がふくの本場だと納得できる解説はありませんでした。それだけ、下関がふくの本場ということについては諸説あるということです。

それならば、今回も中尾説でまいります。結論は「下関がふくの本場」は一つの時代、一つの出来事、一人の人物では、表すことのできない長い歴史、先人の努力と、下関の地政学的な位置が大いに影響していると思います。時代の長さで言えば1千年の昔から、交通の要所として栄えた下関とともに「下関のふく」があると思うのです。

数千年前から下関周辺の古代人もふくを食べたことでしょう。その後の各時代においても下関の住民は長くふくを食べてきました。毒がどこにあるのか、はっきりわからない時代から我々の祖先は神秘の魚「ふく」の魅力を楽しんでいたのです。

古い時代から下関のふくに関係すると思われる大きな出来事を時系列に書き出してみます。

1185年、関門海峡での源平の戦いで平家滅亡。武家社会を形成し栄華を極めた平氏。平清盛がふくを食べたという記録は見当たりませんが、あれだけ瀬戸内海を走り回った清盛ですから、ふくのことを知らないことはないでしょう。

豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)1592年〜1598年。全国から16万人もの兵士が招集された。この時、秀吉は下関に滞留した兵士の中に地元で食べられていたふくを食しフグ中毒にかかるものが相次いだため、立て札にふくの絵を書いてこの魚を食べるべからずと命じたそうです。それだけ庶民の味だったということです。この禁止令は江戸時代になっても継続され、藩によっては大変厳しく、武家がフグ中毒を起こせば家禄没収、お家断絶という厳しいものもありました。江戸時代、関門海峡を有する下関は地理的特性、海陸交通の要所、交流拠点として江戸、大阪に次ぐ大商業都市となりました。特に北前船の時代は「西の浪華」と言われました。遠く北海道から日本海を経由して下関へ。そして大阪への航路です。下関が一番賑わい、輝いていた時代だったと思います。

幕末。維新の原動力の地となった馬関(下関)、吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文等や奇兵隊が活躍した下関。彼らを応援した豪商白石正一郎の日記には各地からの客人をふくで持てなした記録が多くあります。江戸時代まではふく料理は主に汁で「ふくと汁」と呼ばれていました。現在のような刺身にして食べはじめたのは幕末の勤王の志士であったと言われています。

明治維新、政府の要職は長州派閥です。東京にて、幕末に下関で明日とも知れず命を的に食べた下関ふくを自慢しながらの料亭政治も多かったことでしょう。

ふく食を禁止したのが豊臣秀吉で下関。それを解禁したのは伊藤博文で下関。。明治20年の暮れ、春帆楼での宴会時、時化続きで魚がなかったそうです。女将が処罰覚悟で禁制のふく料理を提供したとか。ふくの美味に感動した初代内閣総理大臣伊藤博文が県知事にかけあい翌年の明治21年山口県に限りふく食を解禁しました。それで春帆楼が許可第一号なのです。これには諸説あり、伊藤博文は幕末下関で活躍、かなり遊んでもいます。下関名物の「ふく」の味を知らないことはないのではというものです。

下関へ全国から多くの職人がふくの修行に来ました。また下関から東京へ出てふく料理を広めた人々も多くおられます。

戦争の時代、日清、日露戦争、第一次、第二次世界大戦、終戦、昭和20年。この間、下関は海陸交通の拠点、韓国、中国へ大陸の玄関口として大いに賑わいました。全国から人々が集まり、下関へ宿泊、大陸への夢を見ながらのふく料理、そして大きな志をもって大陸へ。一方、大陸で一旗揚げた人々は下関でふく料理、故郷に帰り下関でふくを食べたことを自慢しないはずはありません。

昭和40年、日韓国交樹立による漁業協定の締結。東シナ海、黄海へ漁場が拡大し、大量水揚げの時代が始まりました。昭和41年下関漁港は全国一の水揚げ量28万トンを記録しました。南極海の商業捕鯨も戦後の我が国の食糧難を救いました。昭和37年は23万トンで最高です。現在下関漁港の水揚げは当時の1割、くじらの漁獲量は1%に減少しました。昭和25年、下関唐戸魚市場(株)が誕生しました。下関漁港に比較して小さな会社でしたが、この会社が下関ふくを全国に供給する一大魚市場に発展するのです。この頃から、先人が全国へ向けて「下関ふく」を出荷、宣伝が始まりました。特に初代仲卸人組合長の中尾勇氏(ふくのなかお)は先見の明があり、自らも大消費地のデパートに出店し、下関ふくを大いに広めました。その後を継いだのが小野英雄。私の叔父です。下関唐戸魚市場(株)社長、下関ふく連盟会長、商工会議所副会頭等を歴任しました。

昭和49年、それまでの狭く、大型のふく船には接岸が危険であった唐戸市場から、彦島南風泊へ移転したのです。当時は賛否両論で決死の覚悟だったと聞きました。生産者の応援もあり結果的に一元集荷に成功しました。

南風泊市場への進出がなければ「下関のふく」は今頃「福岡のふく」か「長崎のふく」になっていたでしょう。仲卸人の中には商いとともにふくの文化を広めた平尾光司氏(平越商店)やアメリカにふくを輸出した畑栄氏(畑水産)等、多くの功労者がおられます。バブル全盛期には活とらふく1キロ、4万9千円を記録しました。養殖ふくの出現、観光ブームの到来、文学的にも代表する作家として直木賞を受賞された古川薫さんたちの応援エッセー、発信がありました。

下関のふくがここまでこられたは今までの説明に加えマスコミの力が大変に大きかったと思います。全国ニュースで南風泊市場1月4日の初セリ、袋ぜり、9月のシーズン初め、各種のふく祭り、皇室献上、アメリカ出荷、料理番組等。取材の窓口は私でしたが全国から非常に多くの来客がありました。

林芳正先生が農林水産大臣の時「下関ふく」が水産物では全国で初めてGI、地域ブランドの認定を受け、名実ともに日本一の「下関ふく」となりました。

以上、いろいろと書き連ねたら長い文章となりましたが、それほど長い下関の歴史とともに「下関のふく」があると思います。そして何よりの応援団は下関市民であるということを申し上げて今回のふく百話を終わります。